入門五ヶ月後のセミナー体験記
飲み会の時だけ10年選手のような私だが、実はまだ半年も経っていない。そんな私を 入門にかきたてた去年9月のセミナーから、意識だけはなんとか変えようと思って 稽古してきたその成果は・・・
2月12日、晴れやかに澄み切った天候に恵まれる中、参加者が集まってきた。セミナーに対する個々の思いが、それぞれの顔に緊張として表れている。 普段の稽古とは違い、通常の基本功は省 き、投げ技等に入るための簡単な準備体操や受け身から始まった。一通り終わったあ と、十字功の縦円ではなく横円、すなわち肩から肩へのライ ンをつかった受け身を練 習する。最近総合の試合に 出た参加者の話題から払い腰を取り上げ、十字功を使った払い腰の練習へと進む。相 手を腰に乗せたあと臀部を後方へ突き出しつつ地面か ら 伸び上がるような投げ方では なく、力をつかわずにストンと真下に相手を落とす。しかし見るのとやるのは大違い で、自分の軸がブレまくって、先生のようにはできない。 グラブを着用し、突きの稽古へ。肘と膝の一致に注意しつつ前 進、後退を連で行う。パートナーと組んで相方のグラブを標的に、動きながらの突き の稽古を行った後、蹴りも交えて軽いスパーリン グへ。
ここにおいて、身体操作ではなく、身体創作という語の意味がはっきりしてくる。闘うとは、技の引き出しをたくさんつくり、それを状況に合わせて引っ張り出す、とい うような、なにやら膨大なデータベース から必要な情報を引っ張り出すような悠長な 操作をすることではない。データベースにアクセスしている時間はすべて無駄である。無駄はどんどん削ぎ落としていくのが阿吽会の概念である。闘えるとは、即興できる身体を持 つ、という こと。技術=データベースではなく、技術=身体=武術体 なのである。 技術はノウハウではなく、それを使う身体そのものである、ということ。これはもう 意識転換にほかならない。
こうきたらこう、 とか、ああきたらああ、などというノウ ハウではなく、身体そのものが武術になっているからCPUにアクセスしないですむ。 身体がそうなっていない限り、技のコレクターの域を出ない。 せいぜいノウハウを引 き出す速度が速くなるか、または引き出すのになれたデータをしょっちゅう引き出し、やがては他のデータに埃がかぶるか、である。置かれた状況に最適な対策を、瞬 時に身体がこしらえ、無駄の ない処理作業をしていく。そういう身体を作り上げてい くのが日々の阿吽会の稽古法である。アプローチがまったく違うので、錬功法はあっ ても形がないのも、創作を妨げないようにする配慮に 他ならない。
次にその創作だが、創作にはいくつかの必要条件を満たさなければならない。なんで もいいわけでは、もちろんない。それはさまざまな接触技術の訓練を通して、個々が 自得していくことである。先生はすべての弟子のカスタマイズを引き受けるサービス センターではないのだ。武術に甘えは一切許されない。厳しい世界。気付かないもの は永遠に無駄な時間を過ごすことになる。それを再認識した今回のセミナーは、私に 一層の変革の必要性を痛感させた。
(阿吽会 武術クラス 田中英雄 )